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文章が「開かれている」状態について

こんにちは。望月しまうまです。

普段、小説や詩を書いているのですが、ブログの文章を書くのはまたそれらとは全然違った営みだと、
文章を書くにつけ、キーボードをかたかたしている今この瞬間も、感じるわけです。

小説や詩の場合、たいていは自分の中にある言葉にできない”なにか”をどうにか言葉という器に盛ろうとして、
自分の”なか”(それはいわゆる心や精神とも違うように思います)を手探りでかき分けるような状態になります。

けれどもブログの文章は、どこか、(やったことはありませんが)ラジオのパーソナリティーに近いのかなという気分になります。
この記事を見つけ、読んでくださる人のことを、具体的にではないけれど、画面の向こう側に置くような気持ちで、書くことになります。
もちろん、ブログでもそんなこと考えずに思うがまま書く、という方もいるでしょうし、どういう風に書く”べき”というようなものでもないでしょうが、わたしは、そうなります。…ね。

それはあるいは、自分を癒やしたり、自分と世界の繋がりを見つけたりという、明らかに目的の異なる創作行為をしているが故に、余計に感じることなのかもしれません。

そして、ブログの文章に向かい合っていると、どうにも、作家の村上春樹さんが、「文章が他人に対して開かれている」というようなことを述べていたのを思い出さずにはいられません。
それはたぶん、小説作品のなかではなくて、なにがしかのインタビューや対談の中でご本人の言葉として語られたものだと記憶していますが、正確な出典がさだかではありません。が故に、これは正確な意味での引用ではなく、あくまでも、それを読んだわたしのからだの中を通った(通ってしまった)言葉ということになるのですが。

それは本来は、小説作品を書く上でも気をつけなければならないことなのかもしれませんし(実際、村上さんはそういう文脈で述べていたように思われます)、「開かれている」ということが具体的にはどういうことなのか、いまいちわたしも掴んではいません(そもそも「具体」で語れる類のことでもないのだと感じているのです)。
けれども、人の書いている文章を読んで、「読む人のことを考えていない」と思うことは、誰にでもあると思います。もちろんわたしにもある。そしてそれは単に「専門的な用語をできるだけ使わず、一般的な語彙や知識に即して書く」というようなことだけで回避できる問題ではないのだと思います。
それは最終的には、読んでくれる人と”個人的に”繋がりたいと(本当に)思って書いているか、という、スタンスに関わるものごとなのかもしれません。
そう言ってしまうと簡単なように聞こえますが、実際は、誰にでもサクっとできることではないのでしょう。

書くことは、発信することは、自分をさらけ出すことでもあるし、人と”個と個の関係として”繋がろうと思えば、それ以上に、さし出すことでもあるような気がします。
それはとても怖いこと。少なくともわたしは、どれだけ頭で大丈夫と考えたり強がったりしても、気を抜けば自分の殻の中で(悪く言えば自己満足の範疇を出ないままで)書いている、ということになりかねない。

今こうして文章を書いていて思いましたが、それは扉のノック、それも、外に出たがらない、あるいは「わたしに」会いたがらない相手へのノックに近いものなのかもしれません。
天照大御神が天岩戸(あまのいわと)に籠ってしまったときに、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が己が身を曝け出しながら踊って天照大御神を洞窟から引っ張り出した画がふと思い浮かびました。
それはとてもエネルギーのいることだと思います。
自分を、飾らない形でつよく持てること。そうして、相手を威圧するでもなく、相手に媚びるでもなく、率直に、真っすぐに相手に関われること。

文章は、嘘をつけないように感じています。
こういう感じの自分を演出したいと思って書いても、狙った通りの人物像を読み手の側は受けとらないばかりか、
そこにある作為をも(そうと意識しないまでも)敏感に感じ取ってしまうように思います。

だから、自分の文章についても、常に、とは言えないまでも、できるだけ立ち止まって顧みることを繰り返しながら、
そしてその営みそれ自体によっても自分をつよく磨きながら、この文章を読んでくれる誰かとまっすぐに”繋がれる”ことを
願って、書き続けたいと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

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