こんにちは。
などと、誰に向かって紡ぐ言葉だろうか。
この文章は、いつかは誰かに届く、手紙となるだろうか…?
誰にも読まれない手紙は、手紙と言えるだろうか。
誰にも読まれることのない、手紙(のようなもの)を書き続けることに、内的な意味を感じ続けられるだろうか…?
わからない。
けれども今、書きたいと思うから書くのである。
以前、WordPressを使い始めた当初にも感じたことだけれど、
下書き状態で、誰にも見られる可能性のないはずのこの文章を書いている自分は、
自分以外誰もいない自宅の部屋にいながら、明らかに、「人に見られている」心理的モードになっている。
少なくとも、小説を書いているときの自分とは、文章以前に、意識状態が異なると感じる。
それは面白いのか…?
どうだろう。創作の参考にする、ということだけでは、続けられないだろう。
ここにはここにしかない、「書く」ことの意味を感じなければ。見つかっていかなければ。
誰かに届けたいと思う。繋がりたいと思う。
それは間違いのないことだと思う。
それなのに、それを(前回)続けなかったのは、自信がなかったのだろうか。
毎晩砂浜から手紙を入れたビンを海に流し、起き抜けに、いつか流したそれに返事が返ってくることを期待して、
明けやらぬ世界を横目に海岸へと急ぐことに、虚しさを感じたからだろうか。
自分の言葉を疑うならば、やらぬがいいさ。
その代わり、誰とも繋がらないことを、誰にも自分の声が届かないことを、
誰も自分の声を拾い上げないことを、嘆く資格もない。
また「見られる」ことを意識した、肩肘の張った文章になっている。文章ではない、意識が、だ。
気まぐれでもいいじゃないか。
内的な探求の方が、20代の今の自分にとって重要度が高いということは、わかっている。
わかっているのなら、それに従えばいい。
気が向いた時に、書こう。
何を? その時に書きたいと思ったことを。
誰に向けて? その時に自分が繋がりたいと思う人たちに向けて。
こうして、誰かに読まれる(理論上の)「可能性」はあるものの、(実際に)読まれる「蓋然性」がほぼ皆無の文章を書いているだけでも、書くことは、それでも楽しい。
今キーボードをかちゃかちゃしている正にこの瞬間ふとそう思えただけで、もう、この記事を書いたことは間違っていなかったではないか。
気楽に、気楽に。
Take it easy, take it easy.
テイキティージィー、テイキティージィー。
しばらくはカテゴリ分けもいらないのじゃないか。
気楽に書こう。サイトの体裁など、後からいくらでも整理することができる。
書くことの喜びを、書きながら感じること。
「ハレ」の日の文章としての小説や詩に対し、「ケ」の日の文章として、自然に、素朴に、でも丁寧に、ただ書き続けていくこと。
書いていればまた、見えてくることもあるだろう。
その時まで、さよなら。
今の自分。