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『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』に救われたこと|責任を、痛みを、引き受けるということ

『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』

こんにちは、まおです。
今日もいい夢見てますか✿

『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』が公開されていますね。
わたしは少し遅ればせながら1月下旬に観に行ったんですけど、そこで大変に”くらって”しまい、「こりゃ全部観なあかん」とスパイダーマンシリーズを最初から復習して、本日(2022/2/4)二度目を観てきました。

復習で過去作品を観だすと、自分がほとんど過去シリーズを観てなかったことに気づきました。
(僕はMCU=アベンジャーズシリーズのファンなので、現在のトム・ホランド版の2作は観ていましたが、それ以外だと初代トビー・マグワイア版の「1」しか観ていませんでした…汗)

なので、1度目を過去シリーズを知らない人として、今日は全作品知っている人として、と、違う立場で2度見た者としての感想をまとめてみたいと思います。

この夢(映画)に救われる人:
・人に明かすことのできない秘密を抱えて苦しんでいる人
・大切な人の幸せのために、自分の望みを諦めて身を引いた経験のある人


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作品あらまし(※ネタバレなし)

『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』ってこんな作品
  • トム・ホランドが主人公ピーター・パーカー(スパイダーマン)を演じる、3代目スパイダーマンシリーズの3作目にして完結作。
  • トム・ホランド版スパイダーマンシリーズは、MCU=マーベル・シネマティック・ユニバースに属している。本作でも、カンバーバッジ演じるドクター・ストレンジが重要な役割を果たします。
    (※MCU=マーベル・コミックの各ヒーローたちが同一の世界観の中で協力したり共闘したりするクロスオーバー作品群。俗に言うアベンジャーズ系。)
  • 前作で敵のミステリオにスパイダーマンの正体を世間にバラされてしまったピーターが、ドクター・ストレンジを頼って世界から「スパイダーマン=ピーター・パーカー」という記憶を消してもらおうとする。しかし魔術が失敗し、別の世界線に属す過去のスパイダーマンシリーズの敵たちを引き寄せてしまい、彼らを元の世界に返すために闘っていく。
    (※前作=『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』)
  • 敵だけでなく初代と2代目のスパイダーマンも現れ、3代のスパイダーマンの豪華な共演が観られます…!
  • 自分の起こした次元の歪みの責任を取って、ピーターが最後に選ぶ決断に救われる

感想と救われポイント ~痛みを独り引き受けたとき、少年はヒーローに”なる”~

ここからは、作品のネタバレを含みます
これから鑑賞される予定の方はご注意の上、お読みください…! よろしくお願いします✿

過去シリーズへの、愛が、リスペクトが、にじみ出る。あまりにも、あまりにな。

はじめにエンタメ作品としての見どころをさらってしまえば、

とにかく過去シリーズへのがもうすごい

ということです。

3代存在するスパイダーマンシリーズは、全て監督が別々なんですが、今回の「ノー・ウェイ・ホーム」では過去シリーズのスパイダーマンとその敵(ヴィラン)達が出てきます。
胸アツなのはなんといっても、「ただファンサービスとして出して闘わせた」だけで終わることなく、過去のスパイダーマンたちができなかった「ヴィランの救済」をこの世界でやろうとするところですかね…!

過去シリーズでは、ヴィランたちは残念ながら死んでしまうことも多いです。
例を挙げれば、

  • ドック・オクは初代のトビー版スパイダーに諭されて改心したものの、自らの行いの始末をつけるために自死の道を選んでしまう
  • 2代目のアンドリュー版スパイダーはエレクトロとなんとか対話を試みようとしたものの受け入れられず、最後エレクトロは戦闘の中で爆死してしまう

といった感じ。
スパイダーマンたちの努力も空しく、悲劇の結果として起きてしまったヴィランたちの死を、「彼らたちの心身を治療することで運命を変えていく」というストーリーは、まぎれもなく過去作への愛からくるものだと思います。

さらにすごいのは、本作の監督(ジョン・ワッツ)は先代スパイダーマンたちの心まで救おうとしたことです。
トビー版スパイダー(初代)は、グリーン・ゴブリンことノーマン・オズボーンがヴィランに身を堕としてしまったことを、親友でありノーマンの息子でもあるハリーに打ち明けられなかったが故に、二人はその後長くすれ違いと憎しみの関係を生きることになってしまった。
それが、3人のスパイダーで協力して作った薬で彼(ノーマン)の人格を治療することで、結果として、親友とわだかまりを抱えて生きざるを得なかったトビー版スパイダー自身も救うことになるんですね。

展開が優しすぎる…過去シリーズを大事にしているんだなぁ…というのが伝わります。

中でもあまりに美しいのは、アンドリュー版スパイダーが『アメイジング・スパイダーマン』(2代目)シリーズ内で恋人(グウェン)を救えなかったことを、本作でトムホ版スパイダーの恋人(MJ)を代わりに救わせることで癒そうとするところですね…。

『アメイジング・スパイダーマン』シリーズでは、アンドリュー版スパイダーはタワーから落ちた恋人グウェンにすんでのところで手が届かず、彼女を死なせてしまいます。
それと全く同じシチュエーションでタワーから落ちていくトムホ版スパイダーの恋人MJを、再び飛び降りたアンドリューが今度は間に合って彼女を救うことに成功します。
(※実際の恋人であるトムホ版スパイダーももちろん、アンドリューより先に助けに飛び出したんですが、グリーン・ゴブリンに阻まれました。それを見たアンドリューが後を飛び出します。一応、トムホ版スパイダーへの名誉のために…)

過去そのものを変えることはできないけど、異なる世界線で過去を生き直すことで救われる

展開が本当に美しすぎるし、なんというか、もう、愛…愛やなあ…それしか出てこない(←語彙)
(2代目スパイダーのアンドリュー・ガーフィールドのこの部分の芝居がまた良いんですよこれが……
 目の前のトムホ世界のMJにはわからないけど、”今度は”助けられた、っていうことを独り噛みしめる感じ……)

そしてこれって、わたしたちにも当てはまることだと思うんです。
もちろん、「マルチバース」という多元的な世界線があって、「別の世界線で」過去を生き直す、というのはフィクションならではの設定ですけど、「過去を今の行いによって生き直す」ということは、実際に僕らにもできることだなあ、と。

己の未熟さによって、恋人を傷つけたまま別れてしまった。
その過去自体は、その傷自体は、後悔自体は変えられないけど、今の恋人ならば。もしくは、今後できる恋人ならば。
過去の恋人にしてあげられなかったことを自分の努力でしてあげられる。今は、未来は、意志の力で作れる。
過去の悔いを現在に重ね合わせることで、過去を”今”、”これから”生き直す。ことだったら、できるかもしれない。

あなたが「もう痛くない」なら。僕が「この先ずっと痛」くても、それでも…よかった。

ここで正直に申せば、僕は3代目トム・ホランド版スパイダーマンはあまり好きじゃありませんでした。

What the fuck, man !?

と思いましたかね…。いえ、すみません。弁明をば。

僕が今回の「ノー・ウェイ・ホーム」を観て思ったのは、

トム・ホランド版のピーター・パーカーは、3作目、シリーズ完結作にしてやっとヒーローに”なった”

んだなあということでした。

トムホのスパイダーマンて、MCUに入っているから登場作自体は、

  • 『シビルウォー/キャプテンアメリカ』
  • 『スパイダーマン:ホームカミング』
  • 『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』
  • 『アベンジャーズ/エンドゲーム』
  • 『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』

と、わりと本数あるんですよね。

で、単体の「スパイダーマン」シリーズ以外は、言わずもがな他のスーパーヒーローたちが大勢出てくるので、スパイダーマンの「ヒーロー性」についてはあまり問題にならなかった。むしろ、新人アベンジャーズ・チーム最年少ヒーローとして、他のヒーローのように完成された人格を有していないことが”可愛げ”にも”キャラ立ち”にも繋がっていた。

ただ、「スパイダーマン」シリーズについて言えば、当然スパイダーマンが「ヒーロー」として描かれる。
ん、ですけど。

いやお前自分のことばっかやん…!

っていうのが、「ホームカミング」と「ファー・フロム・ホーム」を観ての正直な感想でした。

ホームカミング

トニー(アイアンマン)に認められたいが故に強引なヒーロー活動を行って、むしろ街を破壊したり住民に迷惑をかけたりしている。
自分の力量や、悪を捕まえるために被害を最小限に抑える方法など考えもせずに突っ走り、その最悪な例として大勢の人を巻き込んでフェリーをあわや沈没させそうになる。
ホームカミングの終盤こそバルチャー(ヴィラン)を捕えて改心させますが、本人の動機は「自分がやれるってことを見せたい」とか、「人々に迷惑をかけたから今度こそは」とか、自分本位なんですよねー…エゴ丸出しというか。

ファー・フロム・ホーム

こっちも同じです。というか、もっとひどい。
「夏休みを好きな女の子と楽しみたい」という私欲が常に優先され、エレメンタルズ(最終的にはこれはヴィランではありませんでしたが)の討伐を辞退している(トニーに対してはあれほど自分がアベンジャーズの一員にふさわしいとアピールしようとしていたのに…)し、ミステリオの自作自演に気づいて倒そうとするのも、ぶっちゃけ「トニーから形見として受け取った大切なイーディスを、危険な人物に渡してしまった」という自分の失敗の後始末という感があります。

実際、作中でも自分で

I am Spider-Man. And I really messed up.

僕はスパイダーマン。大ミスをした。

opensubtitles.orgより

って言ってますしね。

もちろん、ヒーローは個人としての幸せを追求してはいけない、というわけじゃないと思います。
ただ、いかんせんトムホ版ピーターはその葛藤がなさすぎる…いや自由か!
ヒーローとしての責任感があまり感じられなくて、常に個人としての動機で動いているように見えます。

だから僕はトムホ版のスパイダーマン前2作はあまり好きではありませんでした。
(「ファー・フロム・ホーム」でミステリオと闘うシーンの映像美は圧巻の一言で、映画としては楽しみましたが…!)

それは今作でも基本的には変わりません。
世界の人々の記憶から「スパイダーマン=ピーター・パーカー」という記憶を消す魔術をドクター・ストレンジに頼んだ際も、恋人のMJやら親友のネッドやらメイおばさんやら、あれこれ「除外条件」を追加注文したもんだから魔術が乱れ、その結果として他の次元からヴィラン(とスパイダーマン)を集めてしまうことになるわけです。

だから今作の基本軸となる「他次元のヴィランの捕縛」も、「しでかしたことの尻ぬぐい」なわけです。

ドクター・ストレンジにも

宇宙で一緒に戦ってきたからつい忘れてしまうよ、君がまだ子どもだってことをな…

みたいなこと(字幕のうろ覚えで恐縮です)を言われて、せっかく「スティーブ」と名前呼びを許されてたのが「サーと呼べ」って信頼を損ねちゃいますし。

と、ここまで悪口みたいになっちゃったんですが。(すみません…でもここからが救われポイントです!)

終盤、次元のひずみを収束させられないストレンジに対し、ピーターは再度ドクター・ストレンジに「記憶を消す魔術」の完遂を依頼します。
今度は、「スパイダーマンの正体」ということだけでなく、「ピーター・パーカーという人物の存在自体」を皆が忘れることになってしまいます。もちろん、今度はMJやネッドたち、果ては術師であるドクター・ストレンジすらも。
この選択をしたことで、ドクター・ストレンジからは最後別れの時に「スティーブと呼んでくれ」と、対等な”ヒーロー”として認め直されることになります。

でね。

魔術を終え、世界が元に戻って落ち着きを取り戻した後、ピーターは別れの際にMJやネッドと約束した通り「また見つけ出して、僕がピーター・パーカーだってことを思い出してもら」おうとします。
が。MJの働くドーナツ店に客として入り、MJとカウンターごしに話していて、それを”やめます”

僕はここに至って、初めてピーターが本当の意味で”ヒーロー”になったんだと思います。

ストレンジに自分を犠牲にして忘却魔術の完遂を依頼した時、ストレンジからはヒーローとして認めてもらったんだと思いますが、もちろんこの決断だけでもすごい(自分が世界から消えてなくなるのと同じですからね)ですけど、これだけだとまだ、前作までとやっていることは同じ=「自分がしでかしたことの責任を取る」だと思うんです。

そうじゃなくって。
ヴィラン達との戦闘の際にMJの額についた傷にドーナツ店でも気づいたピーターが声をかけた時、MJは「もう痛くない」と言い、それを聞いたピーターは、店に入る直前まで用意していた言葉を口にするのを辞めました。

「もう痛くない。」

つまり、あれだけ感動的に別れていても、記憶が消える前にどれほど再会を望まれていても、忘れてしまった以上、MJは「もう痛くない」んですね。知らないんだから。

だから、ここでピーターが別れる前に約束していたように「僕はピーター・パーカーっていって、実はね…」と今までにあったことを話し始めても、MJを困惑させるだけ。というか、実際は記憶が一切ないんだからいきなりそんなこと言われても信じがたいでしょう。
幸い信じてもらえたとしても、今度は、大切だったはずの恋人のことを忘れてしまっているという事実に苦しんだり悲しんだりすることになるはず。

MJは「もう痛くない」。だったら、痛いのは自分だけで十分だ。

と、責任だけじゃなくて「痛み」も「自分だけが」黙って引き受けたことで、ようやく

人を守るために”自分を後回しにして”奉仕する

という、”ヒーロー”になれたんだと思います。

僕はこの結末を観ることができたことに救われました。

いちスパイダーマンシリーズファンとしては、前節で書いたような過去シリーズへの溢れんばかりの愛やら、リスペクトやらで十分満足はしていたんですけど、何より”くらった”、救われたのはここでした。
例えば今のドーナツ店のシーンが「ピーターが自分のことを話して、MJがないはずの記憶を思い出す。”魔術の力に打ち勝って”、あるいは”愛の力で”。」みたいなオチだったとしたら、ピーター的にはハッピーエンドなんでしょうけど、僕は救われなかった。

ピーターはたった一人の家族(メイおばさん)を亡くし、自分を知る人のいない世界でたった一人部屋を借り、たった一人スパイダーマンの衣装に身を包んで夜の街に出ていきます。

なにかが終わっていくということ。失っていくということ。

そしてそれを受け容れるということ。その痛みを、一人で引き受けるということ。

これこそが、人間の最も美しい姿だと僕は思います。

自分本位でとても資質があると思えなかったトムホ版ピーターは、シリーズの最後で美しくヒーローに”なった”んだなあと感じました。
だから、トムホ版のスパイダーマンシリーズは、シリーズ全体を通して力を得た少年がヒーローになるまでの話だったんだなあと。
だからこそこの「完結作」で、既に”ヒーロー”をやっている初代のトビーや2代目のアンドリューが出てきた意味もあるんだなあと、そう思いました。

コンテンツ紹介 ~あさき夢見ばや~

如何でしたでしょうか。

この記事を書いている2月4日時点、Filmarksで上映館を調べると全国363館がヒットします。
公開から1か月近く経ちますが、まだまだ上映は続きそうですね…!
気になった方は是非劇場に足を運んでみてください!!
もし余裕があれば、3代目シリーズの2作だけでも予習していけば十分楽しめると思います!!!!



最後までお読みいただき本当にありがとうございました!
それでは、また。あさき夢の狭間にて ✿

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