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【ぼくのこと】まだ続くの… まおの詳細プロフィール① -静岡編-

えー。すみません。
トップページや、メニュー内の「プロフィール」欄から、わたしの詳細プロフィールをご確認くださった皆さま。

まずは、お忙しい中お時間くださり、本当にありがとうございます。

そして、えー…そこを読んでくださった方は案内があったかと思うんですが…まだまだ終わっていないんです!

どんだけ話すんだよ、っつーね。
いよいよ誰得だよ、っつーね。
自分で突っ込むのかよ、わかってんならやるなよ、っつーね。
いやーもうほんとどうもあいすみません。

でもねえ…喋りたいんじゃ わしゃあ… 許してたもれ!

と、いうわけで。
恥ずかしげもなく、ここからまおのプロフィールの続きをつらつらと語っていきます。

ここまでお付き合いくださる本当にお優しい皆さま。
どうぞ、どうぞ、お酒を飲まれたり音楽を聴いたりなどして、
ごゆるりと、(おおいにツッコミを交えながら、)気楽にお読みくださいね。

いきなりここに来ちゃった!という方は、もちろんこのまま読み進めて頂いても構わないのですが、
お時間許せば、こちらからご覧いただくとよりすんなり話(とノリ)に入っていけるかもしれません ✿


ご案内

小生の、半生の、反省

えー、では、気を取り直しまして! ようやっと生い立ちを話始められそうですね。やれやれ。
ねえ? いきなり「生きる意味」だとか、硬そうな暗そうな話から始めちゃって、すみません。

でもね、同じことを感じている人もこの日の本にきっといるんじゃないかって。
そういう人と、通じ合えることを願って ✿

で、なんですけど。経歴を履歴書みたいに延々やっても辟易って感じだと思うので、いくつかのトピックに、纏めます!

まおのちょっぱや来し方 ✿
  1. 静岡市は羽鳥(服織)出身、天真爛漫ボーイが野山を駆ける
  2. 東京大学 文学部 国文科 を卒業後、大手広告代理店へ入社。順風満帆! と、思いきや、思わせきや
  3. まる3年勤めたのち、2021年4月に満を持して会社を辞し、いざ俳優の道へ!
  4. 適応障害で精神科にかかり、退社後半年で行く末の再考を。穴倉にこもる日々
  5. 2022年は心機一転、フリーに働きながらいろいろなことをのろのろと試していく年にしたい(今ここ)

③~⑤については、次章以降で取り上げるので、ここでは①と②だけ簡単に。

ここからは、わりと本当に、長いです・・・
お時間に余裕のあるとき、もっと言ってしまえば、暇をつぶしたい時ぐらいがちょうどよいかもしれません。
それでも、今お読みいただけるということであれば…もう本当に、ありがとうございます。ありがとう。

「まおくんは本当に、見てるこっちまで笑っちゃうような、かわいい笑顔だねえ…」

と、(僕の)母親はよく授業参観などで、周りのお母さん仲間から言われていたらしい。

そ、そうなんだ…そのかわいい俺、どこ行った? 返してください…。

でも本当に、よく言われたそうな。なんでも、いつもにこにこにこにこ笑っていたそうな。(←他人事、昔話風)
たしかに、残っている当時の写真を見ると、自分なのに笑っちゃうくらいかわいい。気がする。
かわいいというか、いい笑顔してる、うん。目がない。(ホラー?)

とまあ自画自賛(なのか?)はさておき、静岡の片田舎に生まれた僕は、そりゃあとってもとっても純粋な子でした。

当時はなんといっても、「デュエルマスターズカード」に夢中でした。
僕が小学校1年か2年くらいの頃にリリースしたカードゲームだったので、まさにド世代。
カードはいろいろ集めた(遊戯王・デジモン・ポケモン・ONE PIECE・ガッシュ・NARUTO・ドラゴンボールetc.…)けど、
デュエマはいまだにカードが残っているし、先日もふとカードイラストと物語(が、一応あるんですよ!)を見たくて、
カードファイル(各弾のカードの図柄が全部のった、図録みたいな本)まで買ってしまいました。
デュエマの話は、いつかどこかで書くかもしれません。

とまあ、デュエマの話自体はさておき。
そんな感じで、小学生時代の僕は元気いっぱい、笑顔にこにこ、人生ハッピー、なわくわくボーイだったんです。
三方を山に囲われ、残りの一方を川で遮断されるという、鎌倉みたいな天然の要塞なんです、羽鳥は。
だから(だからかは分からないけど)、中学生になっても僕は、全然、休みの日には友だちと公園で水風船とエアガンを持って、ものっそい雑魚いサバゲーみたいなことやってキャッキャしてました、はい。

思えばあの頃が一番生き生きとしていた気がします。
皆さん、そんなものなんでしょうか…

ただ、ここで一番ご紹介したかったのは、

よくメディアで取り上げられる「超人的な東大生」像からはおよそかけ離れたところで私は生まれ、育ったのです

ということです。

なんかね。 東大卒、とか、元大手広告代理店勤務、とか、
肩書が先行して距離をとられてしまうことが今までよくあって、それも苦しくて。
なのでこんな、誰得な幼少期話をさせていただいちゃいました…!

無尽蔵の笑顔をふりまけた幸福な少年時代。毎日、わくわくが、止まらなかったっ♪

おきまりの、虚無の、始まり

僕は静岡市内の公立校に通っていたのですが、
当時、大学では京都に住みたかったので京都大学をぼんやりと志望していました。
理由はシンプルです。

寺社とか着物とか、日本の伝統的な和風文化が好きだから。


はい、なんの学問的志も将来的視座もない理由ですね。我ながらなにも考えていないですね。

あとの方でまた書きますが、思えばこの頃から「自分がわからない」病は発症していたんですねー…。
これが後々(2021年5月以降)の自分を苦しめるとも知らず…かなしみ。
そして、

この頃、虚無が僕を苦しめ始めます。

えーーーーっ!いきなり? ぴえーっ…

幸いにして、勉強はできたんです、ですけど。
それは正直、部活がそれほど大変じゃなかったこと、1年生の時の担任に恵まれたことが大きかったと思います。
でも、ふと、休み時間に友だちと笑っていて泣きそうになる時が、うまく喋れなくなる時が出てきました。

   なにゆえ、みな同じ制服を着ているか。 
    せっかく、花々はみずからの色を誇っているというのに。 
   
   なにゆえ、白い鉄筋に囲まれて、茶けた机にかじりついているか。
    せっかく、空は青く、陽は温かいというにのに。
   
   なにゆえ、来る日も来る日も問題を解き続けるか。
    せっかく、うつくしいことをうつくしいと感動できるというのに。

   嗚呼、なんぞ青き風を閉じ込めん。なんぞ若木の背を丸めん。

問題は解ける。解けば解くほどまた解ける。
解ければ、楽しい。知ることは、楽しい。成績がよければ、褒められる。賞賛される。それは、嬉しい。
友だちも、いる。

それでも、生きていてなんとなく楽しくない。
教室の白い鉄筋が、ふと憎くて憎くてたまらない。
そういう日が、続きました。
そういう日の昼休みは、道場(僕は空手部でした)に行って一人でずっとサンドバッグを蹴っていました。

僕はきっと、この時から「キョムキョムの実」の能力者(超人系)だったのだと思います。

友だちと心の底から打ち解けることなく、一方で成績だけはドンドン上がっていく。
人より多く問題を解けたから、人よりいい点数を取ったから、「それがなんなんだ。」
とても、空虚な気持ちでした。
でもだからと言って、学校をフケたり、趣味に没頭したり、ということもありませんでした。

扶養されている以上、勉学に励むのは子どもの務め。そこから逃げるのは甘え。

という、謎の強迫観念がありました。
衣・食・住のすべてを親に賄ってもらっている身分の者が、

・たくさん遊ぶ
・好きなことに好きなだけ時間を使う

なんてあってはならない。
そんな風に、思っていた気がします。
別に、周りの友だちが遊んでいようが何しようが、それには何も思いませんでした。
これはあくまで自分の価値観で、それを人に押しつけようとは思わない。
いや、そんな人と比較して考えてすらいなかったように思います。

なにはともあれ、自分は、学生を楽しんではいけないのだ。勉強しなくてはならないのだ。

そんな、気持ち。

そして、なにが残念かって、べつに勉強を親に強要されたことは一度もないということ。
勉強によって知識を得ていくこと自体は楽しめていたこと。

僕は静岡の片田舎出身ですから、家庭でも英才教育を施された、とかは一切ありません。
むしろ、幼少期にもっと小学館の図鑑とか、絵本とか、感性を広げるモノに囲まれていたかったなぁ、と思っているくらいです。
誰に言われずとも、家に帰ってくれば自分から勉強をしていました。

よく言えば、まじめな子。お利口な子。
そう、僕は、子どもにはらしくないくらい”お利口”さんでした。
親には、「反抗期のなかった子」と今でも言われます。

なぜ反抗しなかったかと言うと、そう。あの強迫観念ですね。

扶養されている身で親に逆らって何になるというんだ。「じゃあ出ていけ」と言われたらどうしようもないのに。

だから僕は、親の顔色を読むのが上手でした。
そして、ほっとくと注意されそうなことは、彼らの機嫌を損ねそうなことは、言われないでも自分からやりました。

こうして、従順で”お利口な子”ができあがりました。
(過剰に人の顔色を読むのが癖になった原因がもう一つ別の事件としてあるのですが、それはまた別で書きますね。)

ひきかえに、

・自分を一番大切にする方法
・自分の心の声に耳を澄ます方法
・毎日を楽しく生きる方法

を知らずに育ちました。
思えば、僕にとっての(高校以降の)学生時代は、つつがなくタスクをこなして結果に繋げていく”作業”の連続でした。
なんだかビジネスマンみたいですね。

そう、僕にとって「生きること」はずっと、「すべきことをうまくやること」だったんです。
でもそれを、当時の自分は自覚していませんでした。
ただただ、なんとなく、空虚な気持ちを抱えながら、それでも周りに置いて行かれるのが怖くて、
大学受験は1年生の頃からきちんと勉強していかないと後で取り返せないと言われていたから、
勉強に励んでいましたし、それはそれで楽しさも感じながら生活していました。

散りぬるをのコンセプトは遠く高校時代にまで遡る。蘇る。
「今日も生きている。…だからなんだというのだ ?」

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