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川端康成「伊豆の踊子」に救われたこと|感想と救われポイント|冷たく、清く、清冽な、水

「伊豆の踊子」川端康成

こんにちは。まおです。
今日も生きてますか。ええ、あたしもなんとか、生きてます。今日も今日とて、生き苦しいですね。

今日は川端康成先生の『伊豆の踊子』について書きます。

このブログは、まおが救われた”あさき夢”(=苦しい現実生活に麻酔を打ってあと3日生き延びるための救われコンテンツ)について紹介しているわけですが、「小説家」でいえば、今のところ(2022年2月現在)、この川端康成先生がその最たる夢の提供主ということになります。です。

そんな私の中での王道中の王道、大本命、大尊敬、毘沙門天、的な、先生の著作、ぜひ手に取って欲しいです。

この夢(作品)に救われる人:
・孤独と自分とを切り離せずに生きている人
・人との温かな関わり・付き合いに、羨みと僻みの双方を感じて苦しい人

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作品あらまし

「伊豆の踊子」ってこんな作品
  • 高校の国語教科書でも採用されていた(※筆者在校は2011-2013年度)、ノーベル賞作家・川端康成先生の代表的短編
  • 二十歳、(旧制)高等学校の学生である「私」が、憂鬱に耐えかねて伊豆へと一人旅に出る。その途上で出会った芸人一行の踊子に心惹かれ、彼らと旅路を共にしていくことで自らの孤独を洗っていくお話。
  • 冴え切った清水のような、透明で、清潔で寂しい私(著者)の情緒を「体感」し、読みながら一緒に心洗われることで救われる

感想と救われポイント ~冷たく、清く、清冽な、水~

「私」と踊子の、なにも起きない、二人の、それでも最高な、お話?

味読すべきはなんといっても踊子とのやりとりだと思います。

わたし(まお)は当時の芸者文化に明るくないのですが、場合によっては夜のお供をする踊子。
それを「今夜は私の部屋に泊まらせるのだ」とまで、当初の「私」は煽り立ちます。

旅を道連れることになったとは言うものの、旅芸人一行と高等学校の学生(当時は、未来のエリートの卵として上流階級的に扱われていたようです)では身分が違うので宿は別々。

そこで「私」は、離れた宿から一行の営業の様子を伺おうと、「踊子の今夜が汚れるのであろうか」とやきもきしたりするのですが、

仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出してきたかと思うと、脱衣場の突鼻に川岸へ飛び降りそうな恰好で立ち、両手を一ぱいに伸して何か叫んでいる。手拭もない真裸だ。それが踊子だった。若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った。子供なんだ。

本分より(P21)

と、自分の見立てが全然間違っていたことを知り、ここから、踊子と少しずつ打ち解けていきます。

と、ここまで書いてみると、なんだかここから若い二人の純情ラブストーリーが始まりでもするように思わせてしまっているような気がしますが、そこはこれ、日本が世界に誇る文豪・川端康成先生様でいらっしゃるので、そんなことはないわけです。

なんというか、身も蓋もない言い方をしてしまえば、

別段ふたりの間に何か起こったりはしない

です。…え?

いや、そうなんですよ。
なんていうか、「お話」的な、「恋物語」的な、関係性の進展(または後退)といった分かりやすい展開はないです。
ただ、ちょっと話したり、一緒になにかしたりして、ともかくも、「連れ立っている」だけ。
それも二人で、ではなく、踊子のお兄さんやらその妻やら、芸人たちの監督者たる四十ごろのおかみさん、やらと一緒に。

なんですけど。
これがねえ、いいんですよ~~~……。

画が浮かぶ、というと陳腐になってしまいますけど、

踊子が下から茶を運んで来た。私の前に坐ると、真紅(まっか)になりながら手をぶるぶる顫わせるので茶碗が茶托から落ちかかり、落すまいと畳に置く拍子に茶をこぼしてしまった。余りにひどいはにかみようなので、私はあっけにとられた。

「まあ!厭らしい。この子は色気づいたんだよ。あれあれ……」と、四十女が呆れ果てたという風に眉をひそめて手拭を投げた。踊子はそれを拾って、窮屈そうに畳を拭いた。

本分より(P16)

続きを読んでくれと私に直接言えないので、おふくろから頼んで欲しいというようなことを、踊子がしきりに言った。私は一つの期待を持って講談本を取り上げた。果して踊子がするすると近寄って来た。私が読みだすと、彼女は私の肩に触る程に顔を寄せて真剣な表情をしながら、眼をきらきら輝かせて一心に私の額をみつめ、瞬き一つしなかった。これは彼女が本を読んで貰う時の癖らしかった。

本分より(P29)

踊子が一人裾を高く掲げて、とっとっと私について来るのだった。一間程うしろを歩いて、その間隔を縮めようとも伸そうともしなかった。私が振り返って話しかけると、驚いたように微笑みながら立ち止まって返事をする。踊子が話しかけた時に、追いつかせるつもりで待っていると、彼女はやはり足を停めてしまって、私が歩き出すまで歩かない。

本分より(P33)

うーん…どうでしょう、伝わるかな…
抜き書いてみて、全然伝わらない気がしました。(僕が読みながら付箋をつけたお気に入りポイントのはずが…)

というのは、川端先生の作品の、感覚や情緒が乗り移る感じは読みながら「憑依されていく」感じなんですよね…

いやそれ言いだしたらもう紹介する意味…

ですよね。ええ、はい、すみません。
うーん、なんていうんだろう、まず、

無垢な踊子と、それを見る(そして関わる)「私」の目線、その全体がなんというか、とても清潔

なんですよね。
僕は川端先生のことを、

清水の作家

と勝手に(本当に勝手に)捉えているのですけど、川端先生の文章はシーンを問わず、透き通って、冷たくて(ときにほんのり温かい)、そしてさびしくて、

なんだか読んでいるだけで自分の中が洗われていくような感じ

なんですよね。

そこが好き。大好き。本当に好き。
だから、ただ読む。なにも考えずに文章を、言葉を追っていく。ただそれだけのことで、一種浄化されていくものがある。

川端先生の”清水”性を最も純粋に手ごろに味わえる作品

僕は言葉というものが、もっと言えば、言葉の力、言霊みたいなものに、関心があります。すごく、ある。

もちろん、こと小説においては「文体」みたいなものの作用という見方もできるのでしょうし、それについて言えば、各研究者や批評家の方々が精緻に、専門的に分析しておられるのだと思います。

ただ僕はやっぱり、役者として書かれた言葉を「イマ、ココ」で自分の生身の身体から発し、その思想を、情緒を、お客さんと共有する、その面白さや不思議さに曲がりなりにも触れてきたからか、単に「スタイル」で片付けられない、「言霊」なるものの存在をどうしても考えてしまいます。

書く人、発する人自身の「存在」の深さが深く刻み込まれた「重たい」言葉というものがあること、。
そしてそれこそが他人(読者だったり、観客だったり)の奥深い部分に触れて救いになること、を、信じている。
というか、感じている。

それで言うと、まさに川端先生の作品で僕が、

ただ読んでいるだけで癒される

のは、川端先生の孤独、いや孤独の一言では片づけられないような、存在のさびしさ、世界を見る透徹した目線、が、文章自体に乗っかっているからなんだなあ、と、思うんです。

そして僕が川端先生の作品を読むときに感じている”透き通った冷たいさびしい清水”のこの感じが、最も伝わりやすいのがこの「伊豆の踊子」じゃないかな、と思うです。
実際、直接的に水にまつわる表現も随所随所で出てきますし。

そういう意味で、是非とも、川端康成先生の入門作品として、「伊豆の踊子」に触れてみて欲しいんです。
ほんと是非。是非。是非…。

読んでるだけで洗われていくこの感覚、どうか味わってみて欲しいです。

コンテンツ紹介 ~あさき夢見ばや~

いかがでしたでしょうか。

川端先生の作品はいわゆる物語的な”ヒキ”のある感じじゃないので、ストーリーの説明やシーンの共有に腐心すると返って伝わらない気がして抑えたんですが、うーん、それじゃなにも伝わらないのかしら…。難しい…。

ただわたくし、まおが今最も救われていて、尊敬していて、没頭している作家先生なので、ともかくも是非、「伊豆の踊子」だけでも一読してみてほしいです。短いですし!

読んでいただけると、私の感じていること書いたことが、少しでも伝わるのではないかなと思います。ゆえ!
(それじゃ本末転倒なのは重々承知なのですが、ええ…文章力の向上も、精進します…。)

今回、「伊豆の踊子」と、二重括弧『』ではなく一重の括弧にしたのは、『伊豆の踊子』だと、それを表題とした書籍(短編集)になってしまうのか?と思い、音楽のアルバム名に対するそれぞれの楽曲名みたいなイメージで一重にしています。が、それだと今後、例えば『雪国』(作品名であり、書籍名でもあり)みたいな作品はどうなるのか、という問題があって悩んでいます。知見をお持ちの方は是非ご教授いただけると励みになりますっ✿

最後までお読みいただき本当にありがとうございました!
それでは、また。あさき夢の狭間にて ✿

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