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なぜレールから外れることがこれほど苦しいのか|『きらきらひかる』(江國香織)/『コンビニ人間』(村田沙耶香)/『空気の研究』(山本七平)/『「超」入門 空気の研究』(鈴木博毅)を読んで

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『空気の研究』を読んで

以下、『空気の研究』(山本七平)と、ビジネスパーソン向けにかみ砕いて解説された『「超」入門 空気の研究』(鈴木博毅)を合わせて読んでの書き継ぎです。

読んだ。

人間が(特に日本人が)「空気」なるものに拘束されてしまう現象を、本当にごくかいつまんで言ってしまえば、

ある対象を「臨在感」的に把握し、それに「感情移入」をして「絶対化」し、かつそのことに自覚的になれていない状態

であるということになろうけど、これを今回の両作品のシチュエーションに当てはめて言えば。

安定的な職に就き、結婚して、子どもを持つ

という「家族像・家庭像」そのものを臨在感的に「幸福」と結びつけて把握し、そこに感情移入して「個人としての感覚・価値観」をそれすなわち「現実」だと思い込み、それを絶対化する(他の条件や基準を無視する)ことで生まれている、ということになる。

そうなると、悲劇はやはり増すように思う。

なぜならば、彼らが行っている”普通”強要がやはり、自分が「知っている」(ここが「感じている」ではなくなってくるのが感情移入の機能)幸福というものの「唯一の」(=絶対化)手に入れ方を、あなたに「教えてあげるね」「助けてあげるね」という、やはり彼らなりの親切に起因するものであるということになるから。そして「絶対化」しているだけに、

必ず幸せになる方法がここにあって、それをわたしは教えてあげるというのに、どうして断るの?

これ以外では幸せになれないというのに、どうしてやらないの?

という思考になって(本人たちはもちろん上記の言葉で考えているわけではないが、上述の対応を踏まえれば、極論そういうことになる)しまっており、が故にその「押付け力」もしぜん強固になってくる、ということだ。

…ん?、いやちょっと待ってよ?

うわこれ思ったより根深いか?。

吐き違っていった「和」(=「みんなと同じで、なんかいい」)という状態・価値観を臨在感的に「それが安心」「それが幸せ」として絶対視して、多くの人が辿っていく、「定職・結婚・出産」という「みんなと同じ」。
そしてそこから個人が感じ取る喜び・幸せ(和という状態そのものではなくて、例えば「旦那が優しい」「妻がよく気が利く」「子どもがかわいい」とかっていう、その人たちそれぞれが相手との関係性において感じる感情)がさらに感情移入を強める。という二重の構造になっているとしたら。

「和」がいい。→「和」によって得たものが(結果)いい。→安定(定職)した家族・家庭を持つのはいい

だとしたら。

というか、そうでないと「周りで同じでないと異物として排除される」という、『コンビニ人間』の恵子の境遇・感覚が説明できない。

うーん、なるほど。

では、どうするか

では、どうするか。ですって。

ねえ~~っ…ほんとですよね。
ほんとですよね。って、立ち止まってても仕方ないんですけど。

親切という名の暴力という名のすれ違いという名の悲劇

に、どう立ち向かっていくか。

まずは、

それをそのように論証していく

ということしかないのではないでしょうか。

つまり、

あなたの言っている「幸せ」や「普通」は、私にとっては幸せでも普通でもない。それは私の感じ方として事実なの。
だから申し訳ないけど、あなたの申し出には、親切には、応えられない。
そうしたら私は幸せになれないじゃないって思うかもしれないけど、それはね、みんなと同じって状態とか、あなた個人の境遇とかに感情移入しているわけであって、「世界の真実」ではないから、心配しないで。
私はあなたと同じでなくても、「幸せ」と「普通」は手に入れられるから。ありがとう。

というようなことを、一つずつ説明していく、解きほぐしていく、ということがスタートなんじゃないだろうか。

押しつけてくる人たちのことを、そういう人たちがかかっている状態を、把握している、言葉にできる、という、力。

知は力なり

って、ベーコンって人が言ってましたけど、お腹が空いてきましたけど、ベーコンさんがどういう意図でどういう文脈で仰ったかはあまり知らないですけど、でもまあ、そういう事かなあと。

把握して、言葉にして、共有する

ということを、まずやってみる。

この、「把握して」という部分が重要なんじゃないですかね、個々の感覚を述べ合うだけだとどうしても水掛け論というか、結局歩み寄る場所は見つからないというか。だから、知って、それを両者の(納得しないまでも)理解をこしらえるための平場にする、というか。

まあ『空気の研究』の言葉を借りれば、「水」を差すということになるんですかねー。
(細かい話をすれば、「水」は、差しても取り戻す通常性そのものが日本の場合は「空気」に立脚しているので、根本解決には至らない、という旨の内容になっていますが、それでも、二者間の理解ということだけで言えば、雨を降らせ続けていればいつか土の質も変わってくる、変わるまでいかなくても、水が染み込みやすくなっていく、と、思いたいですね…)


それでも解決ができない、というか「一時的な理解」すら得られない場合どうするか、ですけど。

これがまあ、友人とかっていった、天与の関係性じゃない場合は、もう逃げちゃえばいいのではという気はします。
ランナウェイしていいと思う。
苦しみながら一緒に居続けるか、勇気を持って怪我しながらランナウェイして傷が塞がるのを待つか…少なくとも、選択肢はある。

そしてこれが、家族みたいな、逃げようがないものだった場合。

まあ最近では、「血が繋がっているからといって一蓮托生ではない」という考えもあると思うので、ランナウェイできるならしちゃってもいいのかもしれませんよね。

それができない、あるいはそうしたくない、場合は、どうするか。

うーん…これはあまり安易なことは言えないですけどね…。

『「超」入門 空気の研究』の方で、『いじめの構造』(内藤朝雄)の記述がちょこちょこ引用されているんですが、その中の、内部を劇場化して人を拘束、圧迫する学校という場でのいじめへの対処方法として、「学校の法化」というのを挙げていて、それが家庭という場でも使えるな、と思います。

「学校の法化」というのは、要は「学校を聖域化・治外法権化から押し出し、暴力には警察という法の力でもって正当に対応する」ことです。

同じことで、家族でも、

それ以上言うなら、私はそれを私への攻撃・暴力・差別だと感じているので、しかるべきところへ(例えばDVとして)訴えます。

という、「家族だからって、あなたを思ってしていることだからって、なんでもしていいわけじゃない」ということを理解させる、強い言い方をすれば、(外部の正当な)「力」をちらつかせるということ、ですかね。

実際に使わないまでも、そういう手段が自分にあると知っているだけで救いになる部分はあるでしょうし、言葉はよくないかもしれませんが、「ちらつかせる」ことがかなりの抑止力になる(家庭外の第三者の目を意識させる)と思います。
そして「これはそのくらいのことだ、それを押しつけられるのが”普通”とかは知らないが”私にとっては”それくらいの苦痛なのだ」ということを理解してもらうために有効に働くこともあるでしょう。
もちろん、実際に利用してもよいと思いますしね。

コンテンツ紹介 ~あさき夢見ばや~

いかがでしたでしょうか…。

最後の部分は少し苦しい対応策だったように思います。
非常手段というか、「目には目を」的な対応というか…。

僕自身それに苦しむことはありますが、今のところ、僕は「人との関わりをほぼ断つ」という、これまた荒業みたいな手段で防いで、というか離れています。
僕がいま日常的に関わりをもっているのは、世界で二人だけです。
それは意図して得た結果ではありませんが、今、それ以外の人とは、極論「苦しかったら去る」精神でしか付き合わなくていいような気がしています。

もちろん、その分孤独です。大変に、孤独です。
気づけば10日間(レジを除いて)人と一言も会話をしない生活が起きたりします。
そのすきま風は、甘んじて受け入れようと思っています。

この辺は、『嫌われる勇気』とか『ひとを<嫌う>ということ』とかから学んだメンタリティですが、そのうちご紹介できたらいいなと思います。

「空気」とか、「日本人論」とかは関心のある領域なので今後も取り上げていくと思います。
ひとまず今日は、ここまでで筆と思考を停めておきたいと思います。

最後までお読みいただき本当にありがとうございました!
それでは、また。あさき夢の狭間にて ✿

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