なぜ「みんなと同じ」でなければいけないのだろう。
なぜ「みんなと同じ」でないというだけで、肩身の狭さを感じなければならないのだろう。
なぜ「みんなと同じ」でないというだけで、嘲笑の視線を浴びなければならないのだろう。
先日、江國香織さんの『きらきらひかる』を読んだ。
(『きらきらひかる』の紹介を読みたい方は先に下記からどうぞ✿)
「脛に傷持つ者同士」として、セックスレスのまま夫婦生活を営む笑子と睦月の二人が周囲からの”正常”への圧力に苦しむ様子に触れて、村田沙耶香さんの『コンビニ人間』を思い出したので、合わせて再読した。
自分も、大手広告代理店に勤務し順調にサラリーマン生活をしていた中、コロナ禍にもかかわらず会社を辞めたことで、”普通じゃない”人間としての視線にさらされる機会も増えた。
そして自分は元来「空気を読む」ことに長けてもい、そしてそれに抗う力がなくもあり、良くも悪くも「空気」が発生する集団の中にいることが時々かなり苦しく思うことがある。
ので、この両作品は自分に刺さったのだけれど、その感想を、つらつらと書いてみようと思う。
なにゆえそんなに”普通”を嬉々として押しつけてくるのか
両作品を読んでの比較、に始まる感想
- 『きらきらひかる』:子どもを産み、育てること
- 『コンビニ人間』:①子どもを産み、育てること/②定職に就くこと
- 『きらきらひかる』:(主に)親族と親友
- 『コンビニ人間』:家族・友人・友人の旦那(直接の知り合いではない)・コンビニの同僚
まとめてしまうと、「理解の放棄」「多様性の軽視」ということになってしまうんだろうか。
まず、
押しつけてくる側が押しつけている相手の幸せを願っているかいないか
という点は大きいと思う。
願っている人は、『きらきらひかる』でいえば双方の両親と笑子の親友の瑞穂、『コンビニ人間』では家族(主に出てくるのは妹)が該当すると思う。
それ以外は、究極のところ、シンプルに怠惰の手段として理解を放棄しているだけだ。
人は他人にそこまで多くの興味を持てるわけではない。
よっぽど相手が自分にとって大切で、真剣に関わろうと努めない限りは、自分と違う人間を「ありのまま」理解しようとは思わない。それは難しいことだから。
だから、自分が見ている価値観(色眼鏡)で相手を簡単に括って解釈・理解している。
『コンビニ人間』において、恵子の女友だち(ということになっている女性たち)が顕著な例だと思う。
友人ということにしているけれど、努力を払ってまでは恵子に関わろうと思っていない。
極論、次の集まり以降一切恵子が顔を出さなくなっても、そう悲しんだり心配したりはしないだろう。
むしろ恵子を異物・裏切者のように扱って、残った者の団結を高めるための肥やしにすらするかもしれない。
ただ、同じ友人という関係性でも、『きらきらひかる』の瑞穂はそれとは少し違う。
情緒不安定の笑子の唯一の友人というんだから、笑子が一般に付き合いやすいタイプの人間ではないことを知っていながら、それでも関係を続けているのだから、恵子のエセ友人たちとは関わり方が異なっている。
が、その瑞穂でさえ、
「子供つくればおちつくって。私も主人の出張が淋しかったけど、佑太が生まれてから全然平気だもん」
「そういうことじゃないの」
「そういうことなのよ」
瑞穂は断言した。
『きらきらひかる』本分より(P79)
…何が「そういうことなのよ」なんだ?
何が「そういうことなのよ」なんだ?
人のことを他人が決めつけるなんて、よくできるなあと思ってしまう。
うーん。親友だから「あなたのことはよくわかっている」という自負があるからこそなんだろうか。
そういう言い方をしてもらえることで救われる場面もあるとは思うけど、少なくとも悩み相談の時に使っていいコミュニケーションではないと思う。もうそれは自負ではなくて傲りでしかなくなってしまう。
ここが難しいところだなぁ…。
たいして親しくない関係の人間が理解を放棄するのは、ある種仕方ないとも言える。
(人は自分に対して努力して理解しようとするリソースを持ち合わせていないから。)
しかし、親しい者であってさえ、少し本人が疲れて自分に余裕がなければ、少しでも関係性への甘えが働けば、理解は放棄され、”押しつけ”は発生してしまう。
むしろ親しい者であるがゆえの傲慢や甘えが働く場合、睦月の母のようにズケズケと、
”愛情”や”親切”の隠れ蓑にくるまって土足で相手の尊厳を荒してしまう可能性がある。
その時の暴力性は、親しい相手であるだけに深い。
「お姉ちゃんは、いつになったら治るの……?」
妹が口を開いて、私を叱ることもせず、顔を伏せた。
「もう限界だよ……どうすれば普通になるの? いつまで我慢すればいいの?」
『コンビニ人間』本分より(P130)
この妹の言葉なんか、ものすごく狂暴で純粋な暴力だと思う。
しかも、むしろ本人はそれに気づいていないばかりか、自分(と両親)がずっと我慢してきた「被害者」だと思っている。
(べつに妹側に嘆く、怒る権利がない、とは言わない。けど、あなた「だけ」が被害者か?っていう視点の有無。)
それにさっき、人は人にそこまで興味も労力も割けないから、大切な人間でもない限り、「理解の放棄」が起こってしまうのは仕方ないのかもしれない、というようなことを書いた。
が、本当にそうか?
興味ないから「とことん理解しよう」とまでは思えないまでも、「まあよくわかんないけどいいや」と、詮索しない、深入りしない、決めつけない、押しつけない、で”そっと”しておくことだって本当はできるはず。
なぜ理解できないものを”そっと”しておけないのか。
大体が、”押しつけ”が発生する以上、押しつける側は(それが本人の親切からくるものであれ怠惰からくるものであれ)押しつける価値観が”いいもの”だと思っているはずで、ここで言う”いいもの”とは、普通=多数派であるということに他ならない。
そもそも、日本人はなぜこんなに「かたまり」であることに、「右ならえ」をすることに価値を見出しているんだろう。
「和を重んずる」って、日本人の民族性をあらわす表現として流通している気がするけど、うーん、鎖、呪いでもある。
あれ…?、いや、違うのか。
和、とは、本来「同じであること」と同義ではないはずだ。
「みんなちがって、みんないい」を実現すること、異なる個性や価値観を共存させることが”和”であるはずだ、本来は。
それが、「みんな同じで、なんかいい」が”和”にすり替わってしまっている。
なぜ各々が異なることに不寛容なのか。
…怖いから。というのは、ある気がする。
違うかなあ。
相手をあるがまま、自分とちがうまま、そのまま理解する(理解できないまでも、違いをそのままいい意味で”放置”する)ことは、怖いんじゃないか。
だから、自分の知っている価値観に相手をはめ込む。そうして理解した気になって、安心する。
そう考えると、未だに日本は黒船来襲時の驚きと恐怖を引きずっているんじゃないかという気さえしてくる。
あとは戦後のアメリカ占拠。
知らないものは、怖いもの。
あとはなんだろう。
核家族化・孤立化が進んだこととかも関係してくるのかなあ…。
家族の単位は縮小し、地域的な繋がりが薄れて「自分がどうあっても助けてもらえるし、助ける」という関係を結ぶ相手が少なくなったことによって、”知らないもの”と”深く”関わる機会が減っている、んじゃないか。
深いかかわりのN数が少ないから、価値観が十分に相対化されることがないまま、学校教育が、現在の社会が敷いたレールを盲目的に信じるしかない。
むしろ”しかない”という判断や諦めすら存在せず、ある種洗脳されたまま多数派=安心という神話を生きさせられている。
うーん。多数派神話を洗脳されている、という感覚は、
受験勉強を頑張っていい大学に入る
というレールに乗って、その最大級の成果であろう東大に入学しても、
会社員になって、会社という大きな集団に安定した生活を保障してもらう
というレールに乗って、経済的・福利厚生的に不遇のない大手広告代理店に入っても、それでも
「そこに欲しいものはなかった」「少しもやりたいことじゃなかった」ということに初めて気づいた(目が覚めた)
自分の身としては、かなり怖いものがある。
けど。
ちょっと、これ以上考えるには、材料が足りないな。学術的な書籍も読んでもう少し考えが進むといいけど。
ということで、『空気の研究』(山本七平)を注文しました。
これを読んで、書き継ぎたいと思います。