みなさん、こんにちは。まおです。
今日もいい夢、見てますかしら。
今回は、誠実に複数の人と恋愛/性愛関係を生きる「ポリアモリー」についての概説書を読んで、
「愛は有限か」/「限定することは愛の証明になるか」といったことについて、考えてみました。
この夢(本)に救われる人:
・結婚しているor恋人がいるのに他の人を好いてしまってどうしていいか分からない人
・複数のひとを同時に「真剣に」好きになれるのに、それが誰にも認められなくて苦しい人
・血縁や婚姻による法的な<家族>との関係に悩み、ほかの家族像を描きたい人
書籍あらまし
- 著者はアメリカで14か月にわたってポリアモリー(複数愛)実践者たちのフィールドワークを経験。
その豊富な実例をもとに初めての人にもわかりやすく、ポリアモリーの考え方や実際を解説。 - 自分以外にも、「真剣に」複数の人を愛せることに悩みながら、
その実現を目指して努力している人たちがいることに救われる。 - 「誠実な」複数愛の実践はラクじゃない。
世の中の批判や偏見をあびながらも築いてきた実践知を知ることができる。
愛する人の人数を、そして家族を、自分の意志で”選び取っていく”ということ
序盤、この本ではポリアモリーとは何たるかを、この言葉を初めて聞く人にでもわかるように順を追って説明してくれます。
そこではいくつか特徴が紹介されるんですけど、僕にとっては、
合意に基づくオープンな関係であること
所有しない愛であること
という2点が重要な意味を持ちました。これについては、後述します。
そして、いきなり僕がこの書籍にどう救われたか、という話に入っちゃうんですけど。
「愛≠膨大」 → 「愛=無限」 の世界観へ。
人はさ、自分の身に背負える愛情の総量が決まっているんだよきっと。
でね? 俺は人よりもだいぶ、だいーぶ余分に、マジで膨大に愛情を背負わされて生まれてきているわけ。
だから例え俺が2人とか3人を同時に好きになっていても、そこらの男が普通に一人の女の子を愛しているよりよっぽど一人当たりの愛情を多く注いでいる自信があるね。
誰の言葉の引用でしょうか…ずいぶん傍若無人な物言いですね。
…はい、私ですね。
いやなに言っちゃってるんこいつ!?
うーん…ですよね。僕もそう思います。
でも実際、僕はこんなことをわりと真剣に思って苦しんでいた時期がありました。
今はここまでラディカルな感覚ではないですけど、本質的には同じようなことを思っていたりはします。
一応断っておきますが、
上記はポリアモリーの、ないし深海さん(著者)の考えではないです!
あくまで、この本を読むまでの僕がそういう考えをしていた、という話。
でも、ね。
それに近い(といっていいかわからないけど)というか、僕が苦痛に思っていたことと同じことを、この人たちも同じように悩んでいるんだなあ、と思える記述はたくさん見つかりました。例えば、
二人の子供がいる親が、一人の子供を持つ親より愛情を注いでいないとはいえないだろう。愛は人数によって分割されるものでも、有限なものでもない。
本文より(P30)
これはとあるポリアモリー実践者の言葉です。
ポリアモリーは「複数のパートナーを誠実に愛する」という生き方の実践なわけですが、それが「愛の安売り」に見られがちなんですね。
あーはん、なるほど…そもそも量っていう感覚で考えていたのが苦しかったのか。
と、思いました。なるほど…僕にはものすごく、救いだった。
先に断っておけば、僕は現在のところポリアモリー実践者、というわけではありません。
ただ、その素質はもう十二分にあると思います。
実際、この考え方を知るよしもなかった高校生の頃に、
今いる恋人とも付き合い続けたまま、貴女には僕の2番目のパートナーになって欲しいと思っている。
という形で好意を告白したこともあります。相手にされませんでしたけど。
でもこれって、ポリアモリー的な考え方だったのかもしれません。
ポリアモリーには、「第一パートナー」や「第二パートナー」というプライオリティーの考え方が存在し、ポリアモリー実践者間は、己の立場をきちんと理解して行動する必要があります。
だから、第二パートナーの人は第一パートナーを脅かすような言動はとれないし、パートナーを複数持っている側の人は、第二パートナーより第一パートナーの方を優先してあげなくちゃいけない。
いや恋人に序列とか付けんなし。
って思いますか?
この辺は、ポリアモリー実践者たちの中でも賛否あるようですけど、そこで「合意に基づくオープンな関係」ということが大事になってくるんですね。
(※この点に限らず、ポリアモリーには関係の結び方や家族のあり方、どこまでをポリアモリーに含めるか、などで人によっていろんな考え方を含んでいます。)
ポリアモリーの実践には、「合意」と、そのための「対話」が重要とされています。
そりゃそうだ。
だって嫉妬の問題とかスケジュール管理の問題も出てくるし。(両方とも、書籍の中で詳しく語られています。)
本の中で紹介される実例や実践者たちの言葉を読んでいると、彼らの方が、苦しみながら、努力しながら、よっぽど一人一人のパートナーを大事にしているんじゃないかな、と思わされます。
大切に思う人が一人「ではない」というだけで、なぜその子を想う気持ち自体を下に見られなければならないんだ。
という、怒りを感じるような出来事もたくさんありました。
でも、それならば、関係各者全員にオープンにしてみんなが納得できる形を模索する方法もある。
ということがわかって、ずいぶんと救われました。
と同時に、その実践の難しさもよくわかりました。
オープンであること。 ー自由は、ラクの対極にあるー
愛の「自由」と、それを誠実に実現する「倫理」を両立するには、かなり意識的な「自己コントロール」が必要になります。
いくらプライオリティーを決めていたって、嫉妬することもあれば、寂しさや不安を感じることもある。
でもその時に、それをぶちまけてしまっては、みんなで守っている愛が終わってしまう。
己が(第一)パートナー以外の人を大切にしたい、愛したいと思ったら、同じように、パートナーにとっての自分以外の大切な人のことも、認めてあげる、配慮する必要がある。
私の愛している貴女。の、愛している”誰か”。
それを受け入れていくこと、場合によっては面識を以て接していくこと。
そこには日常的な努力があることは、想像に難くないですよね…ツラい。
でも、嫉妬する。だからこそ、ちゃんと相手に自分の正直な気持ちを伝える。「対話」する。「交渉」する。
(前略)交渉とは、自分の気持ちを一方的に押し付けることでも、なにもいわなくても自分の気持ちを汲み取ってくれ、という相手任せの態度でもない。期待や希望、葛藤や悩みを伝えながら、自身をパートナーに素直に差し出すことである。「誠実」というものは、心を開いた状態で交渉を重ねることによって創られていく、と彼らはいう。
本分より(P126)
結局のところ、ポリアモリー倫理の核となっているのは、永遠の交渉のなかで自分自身や愛する人たちの願いや喜び、悲しみや痛みときちんと向き合うことなのである。
ところで、あなたは愛する人と「ちゃんと」交渉していますか?
まさに…。まさに、だ。まさに過ぎて耳が痛い。
備忘:
「自由」という問題については、別途特集で考える機会を設けてみたいと思います。
少し前にベストセラーになった「嫌われる勇気」(岸見一郎・古賀史健)あたりが参考書籍になる気がしています。
自由の獲得には、代償として責任や孤独、苦痛を伴うということ。それを”引き受ける”ということ。
所有しないこと。ー執着を愛の尺度として用いないことー(己への戒めに)
ポリアモリーの考え方に則れば、「パートナーになること」と「所有すること」は別物ということになります。
この「所有する」という感覚は、モノガミー(一夫一婦制)に顕著な価値観のように思うのですが、どうでしょう。
世の中に数多くいる恋愛対象としての異性ないし同性の中から、あなたを「一人だけに」絞っているのだから、「当然」あなたも私に対してこうある「べき」だ。
僕はたまに、自分の恋人だというだけで安心しきったような振舞いの人を見かけると疑問を覚えることが、もっと言えば、それが男性の場合怒りをすら覚えることがあります。
深海さん(著者)はフロムの警句を引用しながら、愛が「あること」と愛を「持つこと」の違いについて触れるのですが、彼(フロム)によれば、「人は愛を持つことができるという誤解のために愛することをやめてしまう」のだそうです。
きっと僕は、「旦那」とか「彼氏」といった立場・ポジションになったことでパートナーからの愛を「既に自分の懐に持っている」と感じて、パートナーを喜ばす、幸せにする努力を放棄している(ように見えている)のが許せなかったんだと思います。
と、言いつつも。
恋人であるということに過信・慢心はしないように気をつけたいと思っていつつも。
この「所有する愛からの脱却」が、僕がポリアモリーを実践する上での一番の課題になるように思います。
(「いや知らねーよ。」って、どうぞ気持ちよく、ツッコんでくださいね。ノリが生まれますから。そうしたらこの無暗に長い長文も読み進められますから。…すみません。)
- 自己肯定感が低い
- 独占したい、されていたい
- 構われていないと愛を感じられない
- 身を焦がして共に破滅に向かっていくような恋でなければ本当の愛とは呼ばない
はい、全部わたしですね。全部、アウトでしょうね、ええ。ポリアモリーの観点からしたら。
アウトというか、実践しようと思ったら大きな障害になるだろうな、という要素でしょうか。
「所有しない愛」の実践とは、言い換えれば「自己への執着の放棄」にあるとのこと。
自己への執着をやめることができれば、他者への執着も取り除くことができる、という考えですね。
うーん…難しい…精進します。
「自己視点の世界観を宇宙視点の世界観に転回する。」
誤解なき理解を、(当事者でもないのに、)願う
と、いうわけで。
僕は現在のところ、ポリアモリーを実践するつもりはありません。
が、いつか実践したいと思う機会が、(共に築いていきたいと願う相手が)、現れるかもしれません。
し、そうじゃなかったとしても、ポリアモリー実践者たちの考え方、姿勢、努力には、深い共感をしました。
だから、少しでも、ポリアモリーに対して適切な理解が広まればいいなあと思います。
(前略)ミシガン大学の研究者たちは、ノン・モノガミーの人々には「性的にリスクを負った倫理の欠如している人」という否定的なステレオタイプが付与されていることを明らかにした。この調査報告の興味深い点は、人々がノン・モノガミー実践者に否定的なステレオタイプを見出しているにもかかわらず、モノガミー関係にありながら他の人と性的関係を持つ人々(日本でいうところの「浮気」や「不倫」をしている人)の方が、実際は性的なリスクが高い、と結論している点である。
本分より(P178)
なぜポリアモリー実践者たちの方が性的なリスクが低いと言われるのかは、ここでは述べません。
(もう既にずいぶんと長く話してきてしまっているので…すみません!)
深海さんは、いわゆる「二股」や「浮気」、「不倫」を批判するつもりはない、と前置きをしつつ、
ただ、自分に都合がいいようにだけ、「ポリアモリー」という言葉を使用してほしくない、という強い思いがある。それはわたしが出会ってきたアメリカのポリアモリー実践者たちの努力や取り組みを踏みにじってしまうことになりかねないからだ。
本分より(P19)
と述べます。
ポリアモリーに対して、「彼らは本気で愛してないから、愛する人に好きな人がいても平気でいられるんだ」という人がいる。それに対し、「愛しているからこそ、愛する人の好きな人を受け入れる」というのがポリアモリストの反論だ。
本分より(P174)
(中略)
調査でわたしは、メタモア(※まお注:自分のパートナーが愛する、自分以外の人)同士、あるいは三角形の頂点に位置する人物が互いに思いやる姿を幾度となく目にした。彼らの配慮は、彼らの複雑な思いや状況を表していた。それらを思い返すと、「本気で愛していないから、愛する人に好きな人がいても平気でいられる」と判断することは、暴力的な行為にすら思える。
ポリアモリー実践者たちに対する深海さんの深いリスペクトが、本全体を通じて文章に乗っかっていると感じました。
彼ら(※まお注:ポリアモリー実践者)の強調点は、「社会規範や婚姻制度を漫然と受け入れるのではなく、自分の意志で付き合う相手の人数を決めることが大切だ」ということである [アナポール 二〇〇四]。
本分より(P31)
愛する人(たち)との向き合い方は、そして家族のあり方は、自分の意志とそれを貫き通す努力によって、自分で獲得していきたい。です。
あさき夢見ばや
いかがでしたでしょうか…
いやはや、わたしの虚無を幾度となく救ってきたのが恋愛だけに、「恋愛」や「性愛」が絡む話はどうしても熱がこもってしまいます。
これでもセーブしたつもりではあるんですけど…それだけ素敵な書籍だったということで!(開き直るな)
ここまでお読みいただいて、なにか引っかかることがある方は是非、この本を手に取ってみてください。
実践しないまでも、考え方を知るだけで救われる部分があると自信をもって言えます。
僕自身が、そうだったので…!
最後までお読みいただき本当にありがとうございました!
それでは、また。あさき夢の狭間にて ✿